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1.日本人の美意識

「僕もたまに外国のひとと碁を打ったり、将棋を指したりする機会がある。そのやってみた感じでは、どうも外国人は部分観で損をしても、総合力を出す力を持っているように思う。同じくらいの技量の日本人だと、部分部分にすばらしい力を出すことはあっても、調和観で負けている。いいかえれば、外国人のうつ手はギコチないようでもバランスがとれている」

昭和の大名人、故升田幸三の著書「歩を金にする法」でこんな言葉を見つけた。

なぜかと思いを巡らせるうちに、日本人の持つ美意識に関係しているのではないかと気づいた。昔、ジュビロ磐田でプレーしたスキラッチは、インタビューで、日本の美意識について語っている。多少長くなるが引用してみる。


  ──日本のことで何があなたの心に残りましたか?

「美意識です。イタリアは遺跡や世界で最も美しい街の数々、並外れた素晴らしい景色などがたくさんある国だと思います。ローマ、ヴェネツィア、シチリアなどを思い起こすだけで分かりますよね。

 イタリア人なら誰でも知っている物たちですが、誰もがそれらを愛しているとは限りません。日本では常にバランスや調和が模索されます。つまり調和のとれた物が美しいということです。

 生け花も、完璧に手入れされた庭園も、まさに芸術である漢字をふくむ書体などは世界一エレガントだと思いますが、すべてが調和の美です。

 私は日本での4年間で多額の報酬を受けましたが、なによりも私が学んだ事は、より高く羽ばたくということについてです・・・

 いずれにせよ、日本のサッカーはエレガントで美しくあり続けると思います。なぜなら日本人は、エレガンスや美しさは何事にも欠かせないと考えているからです。その考えは正しいと思います。」


イタリア人が日本人の中に美意識を見出している。


2.美に殉じる国民性と負の側面

日本人の意識の中に美意識が根付いているのなら、行動原理や求めるものも、知らず知らずのうちに美意識に沿ったものになる。

美はどこからみても美しくなくちゃいけないから、すべては完全であるべきと考える。当然、ものづくりでも完全主義になる。製品に対しても芸術品をみるような視点になる。

80年代末の話だけど、アメリカの自動車メーカーがスポーツカーを日本に輸出しようとして、検査で不合格になったことがある。その理由がいかにも日本らしい。

そのスポーツカーは、車の性能・安全性には、何の問題もなかったが、ボディの塗装時に一本の髪の毛が付着したまま、塗料を吹きかけてしまっていたらしく、検査時に乾いた髪の毛がおちて、ボディに一本線が入ってしまっていた。塗りムラがあるというのが不合格の理由だった。

芸術品という観点で製品を考えるから、少しの不具合があっても、トータルの性能を損なうことがなければ良しという考えができなくなる。ほんの少しの疵があっただけでも、美しさは壊れてしまうから。だけど、部分部分であまりにも完全を求めすぎるあまり、全体のバランスが狂ってしまうことはよくあること。

日本の企業が、部分最適には優れた力を発揮するが、全体最適がうまくできないというのは、きっとこの日本人の美意識が関係している。

升田幸三のいう日本人は総合力を出し切れないとか、調和観に欠けるとかいうのも、このことを言っているように思えてならない。


3.わびさびにみる日本の美の定義

豊かな自然に囲まれた国土に育つ日本人は、優れた美意識を身に着けてきた。無自覚のうちに。そして、その美意識はおそらく生き方にまで影響してる。美に殉じる国民なのかと思える程に浸透していて、特別に意識することすらない。

日本人の美意識は自然崇拝から発生している。西欧のような華美な装飾や対称の美しさだけが美であるとは捉えない。神道のお社は、簡素質素で清浄。自然と溶け込むくらい調和してる。

自然が培う美意識とは、調和と無為。あるがままの姿、穢れ無き姿がもっとも美しいとする感性。簡素で自然な姿に美を見出した。

わびさびも日本の美意識が現れたもの。侘(わび)は「正直に慎み奢らぬ様」「清浄無垢」を表し、寂(さび)は古いものの内側からにじみ出てくるような、自然そのものの作用に重点をおいた、外装などに関係しない美しさの事。

わびの中に、穢れ無き美しさを見出し、さびの中に自然そのもののあるがままの美しさを見出す。

日本が発見し価値を見出した、わびさびの美の最大の特徴は、質素倹約でありながら、同時に美しくもあるという点。美しさを求めるのに必ずしも富を必要としないところ。王侯貴族だろうが、庶民だろうが同じように、わびさびの美を求めることができる。美が上流階級だけのものじゃない。

先ほどのスキラッチのインタビュー記事の訳者は、イタリアでは、豪華で美しいものは上流階級のものであって、ある程度から先は自分たちには関係ないという意識が、庶民的感覚に根付いているために、「遺跡や美しい街を誰もが愛しているとは限らない」ということも出て来るのだろうと指摘している。

日本的美意識は、富と無関係であるが故に、庶民への普及を促進しつつ生活に密着した。日本人は、自らの立ち振る舞いや心根から美を追求した。

フランシスコ・ザビエルが当時の日本を指して語っているように、日本人にとって、貧困は貴族にとっても武士にとっても平民にとっても、決して恥ずかしいことでも、不名誉なことでもなかった。正直さが美徳として通用する社会を当時からつくりあげていた。

わびさびに代表される、その身そのままで美しいとする自然な美意識は、同時に日本人の特質になっていった。

フランスの駐日大使をやっていたポール・クローデルは、昭和18年に日本が敗戦濃厚になった時、パリでこのように言った。

「日本は貧しい。しかし、高貴である。世界の民族でただひとつ、どうしても残ってほしいと思う民族をあげるとしたら、日本人だ」


4.清めの思想

日本人にとって、穢れなき姿とは、神様にお会いするための作法。神社は掃き清められた聖域。参拝者は鳥居をくぐって、本殿に向かう前に手水で手を洗うけれど、本来的な意味は身を清めること。

穢れ無き姿、穢れ無き心でもって、神様にお会いする。穢れた姿では、みっともない格好では神様にお会いする資格などない。そう思ってる。清めの思想が流れている。

日本人は、清めの思想を内に向かって求めることで、正直さ、誠実さが最も大切なものという意識を浸透させていったし、清めの思想を外に向かって求めることで、無為自然、あるがままの姿が美しいとする、日本独特の美意識を生んだ。

博報堂は、『グローバルHABIT』と名づけて、2000年から、世界の各都市で生活者調査を行っている。世界31都市、2万5千人規模で行った2004年度報告によれば、環境問題について、自分の周りでこれから重要になっていくと答えた人の割合は、総体的に関心の高いヨーロッパでも20~30%台であったのに対して、東京が56.6%、大阪は58.2%と突出した数字を叩きだした。

日本人の美意識では、自然のあるがままの姿こそ最高の美。だから、自然保護は美しさを保つための努力と同義。お化粧やエステと同じくらい、求めて止まないものになる。意識が違う。

わびさびの美をいわゆる「美欲」として求めたとき、人々の生活は変わる。すべてを美しく生きようとする姿勢は、そのまま自然との共生になる。

現代の消費型社会では、物欲なんて普通だけど、「美欲」、それも「わびさびの美欲」にシフトすることができれば、世界は物欲社会から離陸してゆく。消費社会が循環社会へと変貌する。

わびさびには富の多寡は関係ない。わびさびが世界で理解され、実践されていけば、欲界から離れ、共生の世界に近づく。やはり日本が世界を拓く鍵を握っている。

(了)





カテゴリー 思索
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